935年、関東地方で平将門(たいらのまさかど)の乱が起こる。
【暗記用俳句】 ♪将門が 乱で敢闘 戦後(935)屁
平将門の乱とは?
平将門(たいらのまさかど)は、桓武天皇の子孫で、関東に勢力をのばしていた武士集団、平氏の一門だ。
平将門(たいらのまさかど)は、常陸国(現在の茨城県)にある朝廷の役所を次々に襲い、関東一円を支配した。
これが、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)である。
平将門の乱(たいらのまさかどのらん)は、935年この平氏一門内で土地の所有をめぐる争いからはじまった。
平将門は勢いにのり、関東全域を支配。桓武天皇の子孫である将門は“新皇”と称し、これを見過ごせなくなった朝廷は、将門追討令(まさかどついとうれい)を出した。
平将門の乱の結果は?
940年 将門 vs 平貞盛(たいらのさだもり)+藤原秀郷(ふじわらのひでさと)+その他、朝廷(ちょうてい)の有力武将(ゆうりょくぶしょう)たちで決戦が行なわれ、その結果、将門(まさかど)が敗れる。
敗戦後、斬首(ざんしゅ)された将門(まさかど)の首は、京の七条河原(しちじょうがわら )にさらされる。将門(まさかど)の首は、胴体のある関東へ向かって飛んでいき、現在の東京都千代田区大手町(とうきょうとちよだくおおてまち)あたりに落ちたという逸話(いつわ)がある。大手町には、将門(まさかど)の首塚(くびづか)が建てられている。
将門討伐(まさかどとうばつ)で活躍した、平貞盛(たいらのさだもり)の子孫は平清盛(たいらのきよもり)で、朝廷政治を牛耳(ぎょうじ)るほどになる。また、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫は奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)となり、独自の政治文化を繁栄(はんえい)させる。
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