1853年、ペリーが浦賀に来航する。神奈川県浦賀沖に黒船が4隻現れる。
ペリー来航とは?
1853年、60歳近くになるアメリカ軍人ペリーが4隻の軍艦(ぐんかん)を率いて、浦賀(うらが、=現在の神奈川県の横須賀市)に現われ、日本に開国を要求した。
これが、「ペリー来航」だ。
当時、日本は鎖国中(さこくちゅう)だったため、江戸幕府は長崎でなければ交渉しないと主張した。
が、ペリーはこれを無視。強引に江戸湾(現在の東京湾)に侵入(しんにゅう)し、大砲を見せつけて圧力をかけた。
実際には、アメリカ大統領から発砲禁止令(はっぽうきんしれい)が出ていたため、ペリーは大砲を打つ気はなかった。
しかし、乗って来た蒸気船(じょうきせん)の燃料(石炭)補給なども必要で、その補給路(ほきゅうろ)の確保もしないといけないこともあったため、アメリカ側も必死の交渉だった。
結局、ペリーの勢いに負け、江戸幕府はアメリカの開国要求の国書を受け取ってしまった。
そしてペリーは、「1年後にまた来るぞ!」と宣言(せんげん)し、アメリカに帰っていった。
ペリー来航と狂歌
ペリー来航の際、以下のような狂歌(きょうか)が流行した。
「泰平(たいへい)の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)たった四盃で夜も寝られず」
上喜撰(じょうきせん)というのは、緑茶の銘柄(めいがら)である「喜撰(きせん)」の上物(じょうもの)という意味だ。
この句は、「上喜撰(じょうきせん)の茶を四杯飲んだだけだが、カフェインの作用で夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(船も一杯、二杯と数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱(そうらん)し、夜も眠れないでいる」という2つの意味をかけたものとなっている。
当時黒船の来航が、江戸の町、ひいては日本全国に、歴史を変えるほどの衝撃(しょうげき)を与え、人々を右往左往(うおうさおう)させたことが、この句から窺(うかが)い知ることができる。
このような状態になったのは、この艦隊(かんたい)が浦賀(うらが)という江戸にほど近い場所に姿を現わし、江戸の町を砲撃(ほうげき)するという噂(うわさ)が広まったからだ。
当時、町にはこの異国船到来(いこくせんとうらい)を告げる多種多様(たしゅたよう)の瓦(かわら)版(読売)があふれた。
ペリー来航のその後は?
翌年の1854年、宣言(せんげん)どおり、ペリーが今度は7隻の軍艦(ぐんかん)を率いて再び来航(らいこう)した。
そして、このときに結んだのが日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)だ。
ペリーが函館に来たのは何故?
当時、アメリカもクジラを捕獲(ほかく)していた。
そして、その捕鯨船(ほげいせん)が津軽海峡(つがるかいきょう)を抜けて日本海まで来ていたため、ペリーにとって函館(はこだて)は絶好の場所だったのだ。
当時アメリカは、主に油をとるためにクジラを捕まえていた。クジラからとれる鯨油(げいゆ)は、灯火用燃料(とうかようねんりょう)や洗剤などに使われており、重要な物だった。
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