476年、西ローマ帝国が滅亡する。
【暗記用俳句】 ♪西ローマ 贅沢極まり 滅亡しなむ(476)
西ローマ帝国滅亡が滅亡したのは何故?
たくさんの外的要因(がいてきよういん)と内的要因(ないてきよういん)が重なった結果、滅亡(めつぼう)した。
西ローマ帝国(にしローマていこく)は、395年に東西(とうざい)に分裂(ぶんれつ)したが、その後476年までの間に、たくさんの外的要因(がいてきよういん)と内的要因(ないてきよういん)によって滅亡(めつぼう)した。
1.外的要因
ゲルマン人の大移動(だいいどう)が始まり、様々な部族(ぶぞく)が西ローマ帝国(にしローマていこく)の領土(りょうど)に侵入(しんにゅう)した。特に、410年には西ゴート族のアラリックがローマを襲撃(しゅうげき)し、掠奪行為(りゃくだつこうい)を行なった。このような侵攻(しんにゃく)が、帝国(ていこく)の防衛力(ぼうえいりょく)を著(いちじるし)しく低下させた。
2.内的要因
西ローマ帝国(にしローマていこく)は、政治的混乱(せいじてきこんらん)と経済的衰退(けいざいてきすいたい)にも直面(ちょくめん)していた。皇帝(こうてい)は、傭兵部隊(ようへいぶたい)の意向(いこう)によって、頻繁(ひんぱん)に廃位(はいい)されて、その統治能力(とうちのうりょく)を失っていった。475年には、ゲルマン人傭兵隊長(ようへいたいちょう)のオドアケルが皇帝(こうてい)を追放(ついほう)し、476年には西ローマ帝国(にしローマていこく)が形式的に滅亡(めつぼう)した。
このように、西ローマ帝国(にしローマていこく)の滅亡(めつぼう)は、要因(がいてきよういん)と内的要因(ないてきよういん)が重なった結果で、476年のオドアケルによる皇帝廃位(こうていはいい)がその象徴的(しょうちょうてき)な出来事となった。
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