1859年、江戸幕府大老・井伊直弼(いなおすけ)が、反対派の公家・大名・浪士らを大量処刑する。
「安政の大獄」とは?
きっかけは日米修好通商条約の調印
「安政の大獄(あんせいのたいごく)」は、1859年(安政6年) に江戸幕府大老(えどばくふたいろう)・井伊直弼(いいなおすけ)が、条約勅許問題(じょうやくちょっきょもんだい)に関して、反対派を大量に処刑(しょけい)した事件。
江戸時代後期には、鎖国(さこく)政策が当時の国際環境に相応(ふさわ)しくないものになっていた。幕府は、外国との関係を調整するために、朝廷(ちょうてい)や諸大名(しょだいみょう)の意見を聞くようになっていた。
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)についても、幕府は朝廷(ちょうてい)の許可(勅許)を得ようと働きかけていたが、アメリカ駐日総領事(ちゅうにちそうりょうじ)ハリスの圧力などもあり、井伊直弼(いいなおすけ)は勅許(ちょっきょ)なしで調印(ちょういん)した。
そして、このことが大きな問題となった。
幕府中枢部(ばくふちゅうすうぶ)では、1857年に堀田正睦(ほったまさよし)が老中(ろうじゅう)として実権を掌握(しょうあく)していた。
堀田正睦(ほったまさよし)は開国政策をとったが、これに賛同(さんどう)する大名の1人に井伊直弼(いいなおすけ)がいた。
この開国派を支える中心勢力は譜代大名(ふだいだいみょう)だ。ペリー来航を機に、攘夷派(じょういは)の親藩家門大名(しんぱんかもんだいみょう)、有力外様大名(ゆうりょくとざまだいみょう)である徳川斉昭(とくがわなりあき)、松平春嶽(まつだいらはるき)、島津斉彬(しまづ なりあきら)たちとの対立が激しくなった。
将軍継嗣問題が、事態をさらに深刻化
さらに、この対立をさらに深刻化(しんこくか)する問題が生じた。
それは、虚弱(きょじゃく)な13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)に子がないため、跡取りを誰にするかという将軍継嗣(しょうぐんけいし)問題だ。
この問題も相俟(あいま)って、勅許(ちょっきょ)なしで条約調印(じょうやくちょういん)を行なったことへの批判は、さらに激しくなっていった。
これに対して、井伊直弼(いいなおすけ)は、1858年から強硬(きょうこう)な弾圧策(だんあつさく)をとりはじめた。反対派大名や公家(くげ)には隠居(いんきょ)させ、1859年には橋本左内(はしもとさない)や吉田松陰(よしだしょういん)などの尊皇攘夷思想(そんのうじょういしそう)をもつ人たちを死刑にしたのだ。
これが、安政の大獄(あんせいのたいごく)だ。
安政の大獄は、桜田門外の変へと続く
しかし、安政の大獄(あんせいのたいごく)は、これでは終わらなかった。
この弾圧(だんあつ)に憤(いきどお)った水戸藩(みとはん)脱藩浪士(だっぱんろいうし)などによって、1860年、井伊直弼(いいなおすけ)は桜田門外(さくらだもんがい)で暗殺(あんさつ)されることになる(桜田門外の変)。
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