1637年、九州で島原・天草一揆が起こる
島原・天草一揆とは?
島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の宗教的な反乱。
島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の宗教的な反乱で、島原の乱(しまばらのらん)とも呼ばれる。
島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)は1637年12月11日(寛永14年10月25日)に勃発(ぼっぱつ)し、1638年4月12日(寛永15年2月28日)に終結したとされる。
乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭(ごしょいんばんがしら)であった板倉重昌(いたくらしげまさ)、副使(ふくし)として石谷貞清(いしがやさだきよ)を派遣した。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍(とうばつぐん)は、原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行なうがことごとく敗走(はいそう)させられた。
城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍(とうばつぐん)は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄(ろく)が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率(とうそつ)がとれておらず、戦意も低かったため、攻撃が成功しなかったと考えられる。
そして2月24日(4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行なわれ、この席で信綱によって総攻撃を行なうことが決定された。その後雨天が続き、総攻撃は2月28日に延期されるが、鍋島勝茂(なべしまかつしげ)の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した。
それまでの兵糧攻めの効果で、この時点で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍(とうばつぐん)の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎(あまくさしろう)は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧(ちんあつ)された。
なお、この反乱鎮圧の1年半後には、ポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。
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