1956年、日ソ共同宣言が調印され、ソ連(現ロシア)との国交が回復する。北方領土問題は未解決のまま。
【暗記用俳句】 ♪ソ連との 国交回復 行く頃(1956)だ
日ソ国交回復と鳩山一郎首相
1951年に結んだ「サンフランシスコ平和条約」で、日本は独立を達成した。
その後日本は、講和会議(こうわかいぎ)に不参加だった国や、平和条約への署名を拒否した国々との国交回復(こっこうかいふく)に努めた。
こうして中華民国・インド・ビルマ・インドネシアなどと平和条約を結び、1956年には鳩山一郎(はとやまいちろう)首相が日ソ共同宣言(にっそきょうどうせんげん)に調印し、ソ連と国交を回復することができた。
日ソ国交回復への道のり
ソ連と個別に平和条約を結ぶため、1955年(昭和30年)6月からロンドンで、日ソ国交調整交渉が、日本の松本全権とソ連のマリク全権との間で行なわれ、翌年1956年(昭和31年)3月までに23回の会談が行なわれた。
しかしながら、領土問題(りょうどもんだい)以外の交渉ではかなりの進展(しんてん)をみたが、領土問題(りょうどもんだい)では、ソ連は、歯舞(ほぼまい)、色丹(しこたん)について返還(へんかん)の意向を示したものの、それ以上は譲らず無期限の休会となった。
同年7月31日から、場所をモスクワに移し、日本側全権の重光(しげみつ)外相、ソ連側全権のシェピーロフ外相との間で第2次交渉が行なわれたが、またもや北方領土問題で行き詰まってしまった。
そこで日本政府は、領土問題(りょうどもんだい)の交渉は後日継続して行なうこととし、戦争状態の終結と国交回復(こっこうかいふく)を図るための交渉に切り替えた。
そして、同年10月19日に、鳩山一郎(はとやまいちろう)首相が「日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言」に調印(ちょういん)。日ソ間に国交が回復した。
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