1657年(明暦3年)、延焼面積・死者共に江戸時代最大級の火災が起こる。
明暦の大火とは?
明暦の大火(めいれきのたいか)は、1657年に起こった江戸の大火事で、振袖火事(ふりそでかじ)、丸山火事(まるやまかじ)とも呼ばれる。火元(ひもと)は、江戸本郷(えどほんごう)の日蓮宗本妙寺(にちれんしゅうほんみょうじ)。この火事の被害(ひがい)が及んだ範囲はとても広く、江戸城を含む江戸の5~6割が焼け、死傷者数(ししょうしゃすう)は10万人以上とされる。
この火事の後、災害対策(さいがいたいさく)として武家屋敷(ぶけやしき)・大名屋敷(だいみょうやしき)の移転(いてん)、寺社(じしゃ)の移動、市区改正(しくかいせい)、火除地(ひじょち)・広小路(ひろこうじ)の設置(せっち)などが行なわれた。
明暦の大火の原因は?
明暦の大火が起こったその日、江戸は前日から北西(ほくせい)の強風が吹いていた。そのうえ、江戸の町は80日以上も雨が降っておらず、大変乾燥(かんそう)した日が続いており、火災が多発(たはつ)していた。1月17日から北西の風が吹き始め、翌日18日の朝にはいちだんと風が激しくなり、同日午後2時ごろ、北寄りの風から西風に変わった。
すなわち、明暦の大火は、乾燥(かんそう)という出火(しゅっか)しやすい条件と、延焼速度(えんしょうそくど)を速める強風という、2つの悪条件が重なっているときに発生したものだった。
このときの大火(たいか)の被害状況(ひがいじょうきょう)を、江戸時代後期から明治時代初期にかけての江戸の町人、斎藤月岑(さいとうげっしん)は、『武江年表(ぶこうねんぴょう)』に、
「万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、堂社三百五十余宇、町屋四百町、焼死十万七千四十六人といへり」
と記している。江戸の町の人口は28万人だったというから、これらの数字からも、被害(ひがい)の大きさがうかがえる。
明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
明暦の大火後の復興に尽力した保科正之
当時の将軍は第4代将軍徳川家綱(とくがわいえつな)で、この大火災の避難対応(ひなんたいさく)から、鎮火(ちんか)後の被災者救済(ひさいしゃきゅうさい)、復興事業(ふっこうじぎょう)まで、陣頭指揮(じんとうしき)を執(と)ったのは保科正之(ほしなまさゆき)だ。火災直後の救済処置(きゅうさいしょち)として、まず粥(かゆ)の炊き出し(たきだし)が行なわれ、これは当初の7日間からさらに延長された。続いて、家を失った江戸町民に総額16万両の救助金(きゅうじょきん)を支給(しきゅう)。
「そんなことをすれば幕府の蔵がカラになってしまう」
と言う反対意見に対し、保科正之は、
「今使わなければ、幕府の貯蓄(ちょちく)はないも同然だ」
と一喝(いっかつ)したという。
さらに、物価(ぶっか)を安定させるために米を確保(かくほ)し、価格の上限を決定。また、「参勤交代(さんきんこうたい)」で江戸を訪れていた諸大名は帰国させ、国許(くにもと)にいる大名には江戸へ来る必要はないと通達(つうたつ)。家臣(かしん)を合わせると膨大(ぼうだい)な人数になる大名一行を減らすことで、米の需要(じゅよう)を減らし、値上がりを抑える目的があったのだ。
さらに保科正之は、江戸を災害に強い都市にするために、初めて隅田川(すみだがわ)に両国橋(りょうごくばし)を設置(せっち)。防火施設(ぼうかしせつ)として、広小路(ひろこうじ)や火除地(ひよけち)を設置(せっち)した。
火除地(ひよけち)とは、市中に明地(あけち)や土手を設け、延焼(えんしょう)を防止するためのものだ。江戸で火事が起こった場合、炎は南北方向に燃え広がって行くため、この方向と直角をなすようにほぼ東西に設けられ、江戸城北部から西北部に集中して配置(せっち)された。
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